・新潟市方面から来た場合は野積橋を渡ってすぐ右側、寺泊のアメヤ横丁前を通ってきた場合はそのまま行くと、大河津分水手前の左側に「コロニーにいがた白岩の里」がある。その裏手には大河津分水から新島崎川まで砂浜が広がる。
・比較的行きやすいのはBポイント。P2に駐車場があり、新島崎川沿いにやや歩けば海岸に出る。
・Aは結構歩かなければならない。野積橋たもとのP1付近に路駐できるスペースがある。そこからコロニー白岩の里の敷地内を通って大河津分水のほとりに出られる。Aはアクセスも良くないことから釣り人もそれほど多くない。盛期にはキスの束釣り(100匹)も可能な有力ポイント。寺泊の釣り情報をチェックしてお出かけになってはいかが。特に毎年6月上旬のノッコミの時期は好釣果が期待できる。AからBまで、延々と砂浜が続いている。思う存分「歩き釣り」を満喫できる。
・大河津分水の河口内付近は根があって投げ釣りには不向き。なるべく河口から離れたほうが根は少ないだろう。なお、大河津分水河口内は禁漁区となっているそうなのでご注意を。
・大河津分水は、信濃川下流部に広がる蒲原平野の水害防止を目的として1870(明治3)年に開削工事が始まった。だが技術的な問題や地元の負担、及び水量の減少により河口部に立地する新潟港の維持が出来なくなる事を危惧した新潟町民等による反対運動や、これらの不満を糾合した一揆(悌輔騒動)が発生し、1875年に工事は中止になり、その替わりとして翌1876年信濃川河身改修事業が着手された。
ところが、この事業は堤防の改修によるものであったため抜本的な解消には至らなかった。そこに1896年7月22日、西蒲原郡横田村(現燕市横田)地内に於いて「横田切れ」と呼ばれる信濃川の破堤による空前の大水害が発生。破堤した距離は300メートルにも及び、被害面積は18,000ha、家屋流出は25,000戸、その水は遠く河口近くの新潟市にまで達するほどであり、分水建設の声は高まるばかりであった。ついに政府は重い腰を上げ、1909(明治42)年に工事を再開することとなった。
そして地滑りなど幾多の苦難の末、1922(大正11)年に大河津分水が完成した。これにより信濃川下流域は洪水から開放され、安定した米作りが可能となった。越後平野は放水路や排水機場、土地改良などにより乾田化が進み、胸まで浸かる、かつての芦沼ではなくなった。
大河津分水が通水する以前の海岸線は、おおむね現在の国道付近であった。
更に詳しい歴史についてはこちら。 信濃川大河津資料館 ウィキペディア大河津分水 参考:新潟もの知り地理ブック
・ちなみに、「白岩」という地名は鎌倉期から見られる、歴史ある地名である。その昔は白石とも書かれたとのこと。江戸期には幕府領、村上藩領、高田藩領、桑名藩領、とたびたび領主が変わったところでもある。
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