黒川村(現胎内市)の塩沢・塩谷付近で、その昔は塩のかたまり(土塩)が産出していた。
塩沢・塩谷でとれた「塩」を運び出した「津(港。港と言っても川の港である)」が「塩の津」と呼ばれ、地名が塩津、その付近の潟が塩津潟になった。古地図などでは「しうつ」、「シホツ」などと書かれていることから、現在は「しおづ潟」と呼ばれているが、「しおつ潟」が正しい呼称ではないか、とのこと。塩は荒川港や新潟港まで川で運ばれ、会津藩などに売られていた。
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(現在の胎内市塩津付近の地図。塩津の右には船戸、小舟戸、戸野港など、河川舟運の船着き場由来の地名が見られる。)
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「塩津潟」(塩津、しうつ、シホツ)は、古くから呼ばれ親しまれてきた地名だそうである。下記の古絵図等が史料として残っている。
康平の絵図(1060年)、高井道円 時茂 譲状案(1277年)、正保二年越後絵図(1645年)、
元禄十三年越後国蒲原郡岩船郡絵図(1700年)、日本輿地図(1756年)、新刻日本輿地路程全図(1779年)、
増修定本新刻日本輿地路程全図(1791)、諸街折絵図(1821年)、越後国絵図
下(1822年)、国郡全図(1837年)
日本全図(1852年)、大日本海陸全図(1863年)、明治道中大絵図(1879年)
など。
ところが、この塩津潟を「紫雲寺潟」と記載した史料が少数ながら存在する。寛治の絵図(1089年)、享保の絵図(1721年)などがそれだ。
上記の通り、歴史的には「塩津潟」という名称で呼ばれてきた潟が存在していた。「紫雲寺潟」という呼称はごく少数であるようだ。特に、「塩津潟」と記されている「正保二年越後絵図」と「元禄十三年越後国蒲原郡岩船郡絵図」は徳川幕府の命令により製作されたものであり、重要な史料である。
さて、塩津と紫雲寺の関係であるが。
「塩津」という地名は、地元では「ションヅ」「シォンヅ」と呼ばれていたそうだ。いつの頃からかそれがなまって、発音に近い「紫雲寺」という字が当てられたのではないかと見られる。塩津が紫雲寺の語源というわけだ。
「紫雲」とは仏教用語で念仏を行う者が死ぬとき、仏が乗って来迎するとされる雲のことである。「紫雲寺」とはなんとも霊験あらたかな雰囲気を醸し出して由緒ありげな字面ではある。
念仏を唱えれば誰でも極楽浄土へ行けるという教えは、法然と、その弟子である親鸞が始めたものであるが、旧仏教の者たちからは疎まれたため、親鸞は越後国国府(現在の上越市付近)に流罪となった。
その後、親鸞が布教活動を行うに連れて越後には浄土真宗が広まることになるのだが、この紫雲という言葉も、そうしたことと無縁ではないだろう。
歴史的には公式に「塩津潟」と呼ばれていた潟であるが、1730年頃からの新田開発の文章に「紫雲寺潟」という記述が現れるようになる。幕府への干拓の願書は「紫雲寺潟」として、1726年に出されたようだ。なぜかこの頃から紫雲寺潟と書かれることが多くなった。この辺の理由はいまだにはっきりとしないらしい。
1735年(享保20年)には紫雲寺潟の干拓が完了し、その地名が紫雲寺となった。そのため、紫雲寺は「紫雲寺潟を埋め立てた地名」という説が定着してしまったと見られる。ただ、現代に至るまで地元の者でも「塩津潟」とも呼んでいたというからややこしい。
塩津潟が正式名だったとはいえ、紫雲寺潟という呼称がまったく存在しなかったわけでもないのだろう。
要は、塩津潟=紫雲寺潟だったわけだ。
おそらく、1700年代の初めまでは、
塩津潟 > 紫雲寺潟
というような存在、呼称のされ方だったのではないだろうか。
ところが、紫雲寺潟として干拓された1730年頃を境にこの関係が逆転してしまい、以降現代に至るまで
塩津潟 < 紫雲寺潟
という存在感の違いになってしまったのではないか。
現在では、紫雲寺潟は「塩津潟」であったという認識が、社会に定着しつつあるようだ。
紫雲寺町は2005年5月1日、加治川村とともに新発田市へ編入し、歴史を閉じた。
上記の内容については、こちらの資料を元に、私の考えも若干加えてまとめさせていただきました。
塩津潟は塩の道/伊藤國夫
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~本書の紹介文~
「塩津潟」の名称は、いつ歴史から消えてしまったのか?
紫雲寺潟と呼ばれている呼称に疑問を持った著者は、50年にわたり「塩津潟」の研究に打ち込んできた。「塩津潟」の復活を説いた渾身の一冊。
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・著者の伊藤 國夫さんの運営サイト : 塩津潟の由来
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